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読書録K

本に出会う歓びを、誰かと共有したい書評ブログ

資本主義の「次」―「限界費用ゼロ社会」

 

限界費用ゼロ社会―<モノのインターネット>と共有型経済の台頭

限界費用ゼロ社会―<モノのインターネット>と共有型経済の台頭

 

  資本主義に未来はあるのか。取って代わる次の経済システムは存在するのか。本書はその問いに、自信を持って、大胆な答案を示す。それは「共有型経済」。自信を持って、というのが単なる未来予想と異なる点だった。著者のジェレミー・リフキン氏は断言する。共有型経済は資本主義を浸食するにとどまらず、代替する。新たなパラダイムになる、と。なぜ、そう言えるのか。

 

パラダイムシフト=コミュニケーション×ロジスティクス×エネルギー

 経済制度が代替する、いわゆる社会にパラダイムシフトが起こるための条件として、著者は①人と人とのコミュニケーション媒体の変化、②人や物を運ぶ輸送手段、ネットワークの変化、③いずれをも支える新エネルギー(動力源)を挙げる。

 コミュニケーションがなければ、私たちは経済行動を管理できない。エネルギーがなければ、情報を生み出すことも、輸送手段に動力を提供することもできない。輸送とロジスティクスがなければ、バリューチェーンに沿って経済活動を進めることはできない。(P31)

 たとえば、社会を工業化した第一産業革命は以下の通り。

 産業革命=高速印刷×機関車×蒸気

 石油エネルギーの登場は

 電話×内燃機関(車、エンジン)×石油

 だった。そして著者が台頭を明言する共有型経済は

 共有型経済=インターネット×分散型ネットワーク×再生エネルギー

 となる。社会が変革し、新たな「スマートインフラ」が生まれる素地があると言うのだ。本書はこの歴史的な流れについて前半で丁寧に解説してくれる。

 

◎資本主義は「限界費用ゼロ」を生み出す

 共有型経済とは、あらゆるもの・情報・サービスがシェアされる経済を指している。それは、資本主義の最終形が限界費用ゼロ、すなわち何かを生み出すための費用が限りなく0円に近づくからだという。

 一例が「3Dプリンター」。驚いたのが、いまや家すらも3Dプリントで建築できるということ。月の砂を原料に、月面に機械が自動で家を造る計画もある。車もだ。こうしたものまで安価に、しかもその土地その土地で生産できれば、「住む」も「移る」も抜本的に変わってしまうであろうことはうなずける。

 製造業に限らず、サービスもだ。教育では「大規模公開オンライン講座(MOOC: Massive Open Online Course)」がある。2012年にハーバード大とMITが共同で開講したエデックスという講座では、15万5000人が受講。これはMITの設立以来150年間の卒業生と同じだという。

 「分散型ネットワーク」とは、これまである工場、ある大学でした生み出せなかった何かが、このように水平的、分散的に、どこでも、大規模な資本を必要としない形で生み出せること。そうしてあらゆるものが大衆化すると、ものの希少性がどんどんなくなり、結果として、資本主義の根本である「利益」が霧消する、という。

 

◎所有からシェアへ

 そうしてあらゆるものが「潤沢」になれば、ものを「持つこと」の価値より、必要な時にものへアクセスし、それ以外は共有することが価値になる、というのだ。これはカーシェアなどの分野で既に現実化している。

 シェアすることがさらなる価値を生む点にも触れている。たとえば、難病患者のオンライン・ネットワークでは、医師の疑念に反して、当事者同士の活発な情報交換で疑わしい治療情報の誤りが正され、体調管理や副作用に関する知見が高まった。インフルエンザの流行予測では、ツイッターのつぶやきによる予測の精度がどんどん高まっている。

 

 本書の醍醐味は、この主張を読み進める中で論拠として挙がる豊富なケースだ。共有型経済が資本主義を完全に飲み込むと納得できるかはともかく、その胎動が想像以上に大きいことを実感できるはず。IoT(あらゆるもののインターネット化)ってどういうことなの?と言うレベルだった自分には、洪水のような情報量だった。

この言葉以外に、ない―「君の膵臓をたべたい」

 

君の膵臓をたべたい

君の膵臓をたべたい

 

 買った。読んだ。読む手が止まらなかった。読み終えて涙が止まらなかった。

 

 圧倒的なインパクトがあるタイトルで、書店で見かける度に気になっていた。ただあまりに印象が鮮烈すぎて、読み終わった今となってはまったく的外れで申し訳ないのだが、「膵臓食べるって、やばい奴が主人公なのか?もしや受け狙いか」と、うがって見てしまっていた。住野よるさんに心からおわびしたい。恥ずかしい。

 

 実際は、このタイトル以外にないのだ。

 

 その理由をお伝えするために、あらすじや登場人物の台詞に触れることは残念ながらできない。というか、しない。おそらくどんなに簡略化したあらすじもネタバレにつながってしまうであろう。それでこの素晴らしい物語を損ねたくない。事実、今販売されている本書や帯には、なんの概略も記されていない。「読後、きっとこのタイトルに涙する」とは書かれている。その通りだ。付記されている読者の声も「3回読みました。50過ぎのおっさんをその度に泣かせる青春小説がかつてあっただろうか」。まさに。

 

 唯一、表紙の絵については触れてもいいだろうか。小説の世界観がにじみ出る素敵な絵だ。

 淡い桃色をした、満開の桜の木のそばの河川敷。腰まで伸びた黒髪を風に揺らせた少女がほほえみ、川にせりでたちょっとした広場?の手すりに身を預けている。もう1人、同じくらいの年代の男の子が写るが、こちらに向けて背を向ける形で手すりに寄りかかり、本を読んでおり、表情は伺えない。二人とも制服姿。空は柔らかい青空で、日差しはふんわりと、春の気配がする。

 まさに、そういう世界でめくるめく物語だった。痛みや悲しみを、そっと受け止めてくれるような優しさが、ちゃんとある世界。

 

 そこで、登場人物は「君の膵臓をたべたい」という言葉にたどりつく。この言葉以外に、ない。自分の思いを乗せるたった一つの言葉に出会うまで、歩み、関わり合う、その尊さと苦さを教えてくれる小説だった。

そんな自分も悪くないかも―「非モテの品格 男にとって『弱さ』とは何か」

 

  表紙の帯に漫画が書いてあると、それだけで「ライトな内容なのかな」と疑ってしまう、正直なところ。書店で見ても手に取らなかった本書が、年末の朝日新聞である選者の(メモし忘れ)「今年のベスト」に選ばれていたことから、半信半疑で読んでみた。

 

 良い意味で裏切られた。重厚。新書の形をした小論文というのが実態で、先行する研究者や哲学者の言葉が多数引用され、言葉を紡ぎながら一歩ずつ思索の地平を広げていく。

 キーワードとなるのは3つで、2つはタイトルにも入っている「非モテ」と「男の弱さ」。そして最も救いを与えてくれるあと一つが「自己尊重」だ。

 

◎男の弱さ=自らの弱さを認められない

 第1章はメインタイトルの「非モテ」には触れず、「男の弱さ」から探求が始まる。そう、本書は非モテ解消のハウツーではない。弱さと向き合うための足がかりである。

 男の弱さとは何か。著者の杉田俊介さんは、鮮やかに表現する。

 男の弱さとは、自らの弱さを認められない、というややこしい弱さなのではないか(P15)

 男性社会の日本にあって、男はマイノリティではない。男は多数派だ。強者だ。恵まれている。男は強くあれ。「男らしくあれ」。一方で、家庭も大事にできなければ真の男ではない。そういうメッセージを感じ取って、つらくてもつらいと言い出せない。「俺はそんなに強くないよ」と正直に言えない。脆さとか、非力さとは異質の弱さが、そんなところにあるんではないかと指摘している。

 それは、自らを追い込む弱さでもある。できない自分が悪い。自分の力が足りないんだ。弱さを言い換えれば「否認の病」だと、筆者はたっぷり60ページほどをかけて、丁寧に描き出してみせる。

 

非モテは化膿

 続いて2章で、「非モテ」に話が移る。自分も無自覚に使っていた「非モテ(もてないコンプレックス)」について、本書は三つの類型を上げている。

 ・非モテ1=モテたい、という欲求

 ・非モテ2=愛したいし愛されたい、という欲望

 ・非モテ3=「性愛的挫折」がトラウマ化し、日常的に苦しめられる状態(P93-96など)

 

 「なるほど」と思わされるのが、非モテはもてたいだけでも、愛されたいだけでもないんだということだった。恋人ができても、非モテ意識に苦しむことがあると筆者は例示する。それが類型の3番目だと。

 第1章に絡めて言えば、弱い自分の否認、認められずにいる状態。もてない自分が嫌で、でもそれを表だって表現もできない苦しみ、「化膿した」弱さが、非モテだと論じている。

 

◎自己肯定ではなく、自己尊重

 杉田さんがタイトルに「品格」を入れた理由は、最後のキーワード「自己尊重」を分かりやすく伝えたかったのではないかと読後に思う。これが、処方箋というときれいにまとめすぎることになってしまうが、男の弱さに、非モテに自縄自縛している男たちへ送る、小さなエールなんだと思う。

 自己尊重とは何か。胸を打ったのは次の一文だった。

 「こんな人間になりたい。だから努力する。でも、そうはなれない」「頑張ったけれど、どうしてもダメだった」。これまでの人生の中で、そうした失敗や間違いを繰り返してしまったこと、それらのプロセスを決して丸ごと肯定はできなくても、ただ、それそのものとしては尊重できる。そしてその小さな尊重の気持ちが、これから自分を変えていくための、ささやかな足場になり、足がかりになっていく。その程度の自己尊重であれば、誰にでもできるのではないか。(P137)

  自分はできるんだと言い聞かせる、自己肯定ではなくていい。だめだなあ、自分。いいよ、いいよ。そんな自分も悪いかもしれないよ。とりあえず、いいじゃない。そんな、やり過ごしというか、ちょっと自分の肩をもんであげるぐらいの、小さな小さな励ましが、杉田さんの提示してくれた自己尊重なんだろうと感じた。

 

 ここまでの流れを、ゆっくり解きほぐして、何度もかみ砕いて導いてくれるのが、本書のすばらしさだと声を大にして言いたい。ほかにも「ルサンチマン」「タナトス」「アディクション」などのワードを手掛かりに、自分の弱さの輪郭をよりはっきりさせてくれるインク、筆を与えてくれる。

 

 読んでいるうちに自分の弱さを顧みて、そこにもやもやとしてしまった自分はちゃんと消化できていないのだが、本書のゴールは自己尊重の《さらに先》にある。それは男の弱さからさらに視界を広げて、たとえば障害者や赤ちゃんなど、社会的に弱者とされるひとの「弱さは本当に弱さなのか」と問い掛けるものだ。

 

 なんで自分はこんなにダメなんだろう。あるいはサブタイトルの「男にとって弱さってなんなの?」と少しでも感じた人は、新たな視座を得られる一冊になるはず。