読書熊録

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「本当の自分」から「自分のほんとう」へー読書感想「愛の本」(菅野仁さん)

本当の自分を探しても見つかりはしないだろう。そうじゃない、自分にとっての「ほんとう」を探そう。自分がどうすれば「生きることの味わい」を感じられるのか。そのために外へ出よう。他者と関わろう。社会学者菅野仁さんの「愛の本」はそんな転回を呼び掛ける。

 

本書は語り掛けるような、手紙調の文体で書かれていて、子どもも普段読書をしないという人もきっと読みやすい。テーマは他者。それは自己とは異質で、自己を脅かす上での脅威になり得て、一方で繋がり合う深い喜びをくれる存在。だから自己啓発書ではない。照らし出すのはむしろ、自己を一歩踏み出して、外にいる誰かと出会うための道だ。ちくま文庫。2018年12月10日初版。

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愛の本 (ちくま文庫)

愛の本 (ちくま文庫)

 

 

 

自分にとってのほんとう

本書が素晴らしいのは、いわゆる「自分探し」に対する新しい考え方をくれるからだ。菅野さんは自分探しが目指す「本当の自分」よりも、「自分にとってのほんとう」を探すことを提案する。

 こんなふうにイメージし直したらどうだろう。

 〈いま・ここ〉という〈生の現場〉からどこか遠くにある「本当の自分」という実体的な何かを夢想するのではなく、〈いま・ここ〉の自分の居場所を大切にしながら、その中で「自分にとっての〈ほんとう〉」を求めることへと「本当の自分探し」を転換してみる。

 すると、「本当の私」へのこだわりは、「幸福の条件」にとってとても大切なものとなるし、現実逃避のようなあやうさもだいぶ薄らぐ気がするんだ。(p50)

自分探しは〈いま・ここ〉にいる自分の否定と紙一重だ。どこかに理想的な「自分」がいて、現状の自分がそこまでたどり着けることが前提になっている。ここには、自分はもっと大人物になれること、そして今は大したことがなくても急激にそんな理想へ喧嘩できること、二重のありえない楽観がある。それは「現実逃避」に陥るリスクがある。

 

だから菅野さんは〈いま・ここ〉にいる自分に目を向けようと言う。そして、理想とは違う自分、本当ではないと思える自分が、何を「ほんとう」と感じられるかを問う。「自分にとってのほんとう」とは何か。菅野さんは「生のあじわい」という言葉を使う。

「自分にとっての〈ほんとう〉」というのは、いろいろな活動の中で「これは自分にとってぴったりだな」とか「これをしていると〈ほんとうに〉楽しい」とか、そういう〈生のあじわい〉が自分の中に強く感覚されることだとぼくは考えている。(p50)

自分探しにおける本当の自分は、自己像の問題になる。それは言ってしまえば「どんな自分に見られたいか」と同義になる。「自分にとってのほんとう」探しでキーになるのは「見え方」ではなく「感じ方」だ。自分が何をすれば、どうすれば「ぴったりな感じ」や「ほんとうの感じ」を得られるのか。活動・アクションを通じて自分の感覚を尖らせていくのが、「自分にとってのほんとう探し」になる。

 

この考え方が素敵なのは、自分がどうあれ、そこには何かしらの「ほんとう」があるということだ。いくら惨めでも、思うような自分じゃなくても。そんな自分にとっても「ほんとう」はきっとある。それを感じられた時、〈いま・ここ〉の自分が少し好きになれると同時に、不思議と一歩、前進ができる気がする。それこそがきっと、「生のあじわい」なんじゃないか。

 

他者もまた「ほんとうを求める」主体

自分にとってのほんとう、という考え方を出発点にすると、他者と気持ちよく関わる道筋もなんとなく見えてくる。

他者とは、何か。菅野さんは竹田青嗣さんという方の「他者の二重性」を鍵にする。

 哲学者の竹田青嗣によれば、他者とは、二重の本質的性格を持っている。それは、自分にとっての「脅威の源泉」であると同時に「エロス(生の歓び)の源泉」であるという二重性だ。さらにぼくの考えでは、「エロスの源泉」は〈つながりそのものの歓び〉と〈承認の歓び〉の二つの側面からなると思う。(p28)

他者とは自己にとって脅威でありながら、同時に「生のあじわい」に欠かせないつながりや承認を与えてくれる。その二重性があるからこそ、他者を恐れつつも、他者と関わり合っていく。そして生のあじわいを噛み締め、自分にとっての「ほんとう」を考えるヒントを掴む、そんなプロセスが大切になる。

 

これを逆から考えてみることも重要だ。つまり、他者にとって「自分」という自己はなんなのか。それは彼/彼女にとっての脅威であり、生のあじわいの源泉。もっと根源的に考えてみる。他者は、彼や彼女は、「その人にとってのほんとう」を求める、「自分」と同じ一個の「主体」だということだ。

「その人にとってのほんとう」というところを肝に銘じたい。つまりそれは「自分のとってと同じほんとう」ではない。自分にとってほんとうであることが、その人にとってほんとうではない。この「異質性」をベースにしたコミュニケーションが重要だと、菅野さんは強調する。

 だから社会の変化を考えたとき、「異質性」を前提にしながら、より心地よいつながりを作るにはどうすればよいのかという発想が大切になるとぼくは考えている。人々が「同じであること」に期待してつながりを作るよりは、「違っていること」を前提としながら、その異質性をベースにつながりや信頼を作っていく知恵と楽しさを求めていくことが、きっととても現実的な考え方なんだと思う。(p91)

「同質性」をベースにするから分かり合えるのではない。「異質性」をベースに心地よいつながりを作ることができる。それは「自分にとってのほんとう」があるように「他者にとってのほんとう」があることを理解すればいい。自分にとってのほんとうを大切にすることと、他者にとってのほんとうを尊重することは、矛盾しないのだから。

 

どんなに落ち込んでも「保つ」

それでも現実は甘くないことを、菅野さんはちゃんと織り込んでいる。他者が、その集積として立ち上がる「社会」が、「自分にとってのほんとう」を大いに揺さぶり、時にはボロボロに壊しうることを、ちゃんと分かってくれている。

 

たとえば野球をすることが「自分にとってのほんとう」だとする。でも、決して野球選手になれるほどの実力はない。「ほんとう」を仕事にすることは叶わない。こんなとき、どうすればいいんだろう。現実と理想のバランス。菅野さんは絶対解はないとしつつ、こう語る。

 でも、もし共通の「形」というものがあるとすれば、それは、どんなに落ち込んだり不安になったときでも、身近な他者の承認を少しずつでも得られるようにする気持ちを、それなりに保ち続けることだろう。(p172)

「保つ」。他者と関わり、承認を得ていくことを諦めないこと。菅野さんは草野球を続ける男性のこんな言葉にヒントがあると指摘する。

 「ぼく(=男性)は野球部時代ショートを守っていて、それなりに一生懸命練習しました。で、30歳を超えたいまでも、飛んできたゴロに合わせてグラブを差し出すグラブさばきの技術がしっかり体に残っている。そのことが、単にグランドの上でだけでなく、チームにおける人間関係を作るときの大きな支えにもなっているんです」(p174)

男性はショートのグラブさばきに、野球における基本技術に、何かしら日常へ援用できるものを感じている。この感覚こそ、男性にとっての「ほんとう」だ。ショートをちゃんとやるように、男性は人間関係において男性らしい役割を果たせる。

 

もしもプロ野球選手という理想に到達できないからといって野球を手放してしまっては、男性のような草野球の学びは得られない。どんな状況であっても「保つ」ことで、自分にとっての「ほんとう」は形を変えて、自分に内在してくれる。

 

「ほんとう」を最大限花開こうと拘泥するとすれば、それは〈いま・ここ〉を捨ててまで本当の自分探しをしていた頃となんら変わらない。そうではなくて、「ほんとう」を抱きしめて、保っていくこと。それが世知辛い社会を生きていく上で大切なことなんだろう。

 

今回紹介した本は、こちらです。 

愛の本 (ちくま文庫)

愛の本 (ちくま文庫)

 

 

自分の中ではなく外にこそ、自分の「ほんとう」を感じさせてくれる何かがある。この問題意識はジェイムズ・リーバンクスさんの「羊飼いの暮らし」にリンクします。歴史的な羊飼いとして生きることは、たとえ自分の名前が残らなくても、長い長い鎖の輪の一つになる喜びをくれると、リーバンクスさんは語ります。

www.dokushok.com

 

自分をこじらせて中年になっても、まだそこから変化できる道があるよ。そんな実体験を軽妙なタッチで語ってくれるエッセーが「ナナメの夕暮れ」です。著者はオールナイトニッポンのパーソナリティも務めるオードリーの若林正恭さん。

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